最近、色々なことが低年齢化してきています。
良い事で言えば、若いスポーツ選手の活躍。
昨年2月に開催された、「ソチオリンピック」でも中・高校生の活躍が目を引きました。
逆に、悪い事は、やはり凶悪犯罪の低年齢化でしょうか。
次から次へと報道される凶悪犯罪には、耳や目を疑いたくなるような事ばかりです。
十数年前、私自身が親になってからは、子供が犠牲になる事件を耳にすると、特に心が痛みます。
自分勝手な話かもしれませんが、親になった途端、我が子に起こった事のように、捉えるようになりました。
でも、よく考えてみると、いつも被害者側の気持ちにばかりなっていますが、自分の子供が加害者になる事はないのでしょうか。
凶悪犯罪に限らず、ボール遊びをしていて、窓ガラスを割ってしまったり、自転車に乗っていて、人とぶつかり怪我をさせてしまったりと。
親としては、「自分の子供に限って・・・」という気持ちが先に立つのでしょうが、加害者の親も自分の子供が事件・事故を起こすまでは、同じように思っている事が多いのではないでしょうか。
そして最近も、いくつもの凶悪犯罪が起こり、子供達が関わり、犠牲となる事件が多々ありました。
次から次へと起こる凶悪事件は、連日テレビ報道され、新たな事件が起きれば、前の事件は報道されなくなり、見ている我々の記憶からも薄れてしまうほどです。
テレビ報道では必ず「事件が起きる前に子供達は、いくつもの信号を出し、その時点で周囲の大人が対処していれば・・・」という話をしています。
確かに、後から第三者が分析すれば、そのタイミングは、いくつもあったように見え悔やまれますが、実際のところ、周りの大人達は、そのタイミングを逃し、事件が起きています。
それは、気付かないのか、気付いても見て見ぬふりなのか。
いずれにしても、事件が起きてから後悔しても、遅いのです。
だからと言って、子供の出す「信号」に、あまりにも早く対処しすぎて「過保護」になっても子供の成長を妨げますし、その逆もダメです。
信号を受け止めるタイミング、「甘え」と「SOS」の境目の判断は難しいと思いますが、凶悪犯罪につながる前の信号は、明らかに「甘え」とは違うはずです。
しかし、その信号にすら気付かないとすれば、何が原因なのでしょうか。
「オギャー」と泣く事しかできず、生まれてきた赤ん坊も、いつの間にか言葉を覚え、いずれ生意気な口をたたくようになります。
「生まれたばかりの赤ん坊にも、それぞれの性格がある」と言いますが、基本的には周りの大人たちの会話の中から言葉を覚え、大人たちの行動を真似しながら成長します。
子供が小さいころは、「これでもかぁ」というくらい話しかけ、甘やかし、中学生や高校生になると、「もう大人なんだから、言わなくても判るはず」と突き放し、挙句の果てに「最近の若い者は」と若者のせいにする大人たち。
「子は親を映す鏡」と言います。
「不良」と呼ばれる子供達も、周りの大人たちの姿を見れば、それも理解できる事が多いのではないでしょうか。
それは、単純に「不良と呼ばれる子供の親も不良」という事ではなく、周りの大人たちが子供に対して無関心であったり、逆に干渉し過ぎであったり、単なるカッコつけの大人達であったり。要するに「大人らしからぬ大人」とでも言うのでしょうか。
しっかりと自分で考え行動できる力を与えられず、育てられた子供達。
被害者と加害者、実は紙一重なのかもしれません。
最近の「いじめ問題」で、「いじめる側にいないと、自分もいじめられるから」と自分の意志に反し、自分の身を守るために「いじめ側」にいる子供も大勢いると聞きます。
さらには、いじめの先頭に立っている子供でさえ、ある日を境に「いじめられる側」になることもあるとか。
このような話を聞くと、子供の社会は、トップがコロコロ変わる「大人社会」の縮図のようで、「子供社会は大人社会を映す鏡」とでも言いたくなります。
そして、子供達は皆、被害者なのかもしれません。
私も親になって感じている事ですが、子供に親の気持ちを伝え教えるということは難しく、体はどんどん成長して大きくなるものの、その行動を見れば、伝えたい事の半分も伝わっていないのではと思ってしまいます。
しかし、子供の立場に立って考えてみれば、同じようなことを親に対しても感じているのかもしれません。
お互い、伝えたいのに伝わらない。
昔の子供達は、口数の少ない親父の背中を見て、しっかりと学び、育ったのかもしれませんが、今は情報化時代。
親父が黙っていても、周りから色々な情報が入り、その中には正しい情報も、間違った情報もあり、大人でさえ判断が難しい事が多々あります。
そう考えると今、大切な事はやはり会話(対話)で、その「会話ができる環境づくり」こそが、大人がやるべき事なのかもしれません。
しかし、大人が起こす凶悪事件も多い今の時代、子供達に「知らない人に声を掛けられても、ついて行かないように」と教えなければならず、それは「大人は悪い人」と、教えているようなものです。
そう言われて育った子どもたちは、「大人は信じられない」、さらに「親は口うるさいだけ」としか思わず、信頼関係を築くのが非常に難しい時代でもあります。
えらそうに「大人」と言っても、「親」とは別で、大人=親ではありません。
10歳の子供の親は、親としては子供と同じ10歳の同級生で、大人としての年齢(経験)とは別です。
子供と話す環境を作るという事は、「大人は、なんでも知っている」という「押しつけ」だけではなく、同級生として、同じ時間や価値観を共有し理解しあう事が大切です。
親は、大人の裏側も知っている「経験豊富で、ちょっと老けた同級生」とでも言えばいいでしょうか。
相手を理解するという事は、大人同士でも大切なことで、理解してくれる相手の意見は、たとえ否定的な事でも素直に受け入れられる事もあるものです。
さて我が家にも、中学校1年と小学校4年の息子がいますが、親子の会話は比較的、多いほうだと思っています。
髭面・ニキビ顔の長男(中1)とも、沢山話をします。
父親としては、その会話の中で色々と伝えたい事があるのですが、子供達から出る話は「品のない」くだらない話はかりで、私もつられて子供時代に戻り、負けずに「くだらない話」でゲラゲラと。
妻は「どうして、うちの子(多分、私も含め)は下品なのかしら」と頭を抱えています。
そんなくだらない会話の中にも、たま〜に「ん?これは?」と思うような話があります。
先日、長男が通う中学校で、ある事件があったそうです。
それは、ある生徒(A君)が、体育館でいたずらをしていた生徒(B君)のことを先生に報告したら、後日「先生にチクった」と、B君から仕返しされ、その様子を見ていたA君の友達(C君)が再び先生を呼び、とりあえず終息したとのこと。
つい最近起きた川崎市の事件によく似た構図で、このような事は昔もありましたが、私の時代はこんな時、「おっかない体育の先生」が飛んできて、痛〜い「げんこつ」されて、おしまいでした。
いや、「おしまい」ではなく、その後も先生は注意深く目を光らせ、問題を起こした生徒達とも積極的にコミュニケーションをとり、それはそれで最後まで「いい関係」だったように記憶しています。
何かトラブルがあった時、それが一つ目の信号で、治まって終わりではなく、大人は「その後」を見守る必要があります。
子供達のトラブルは、表面的には白黒はっきりしている事が多いのですが、その内面は、お互いの相反する言い分があり、一言で「答え」が出る訳もなく、大人はまず、子供達に対して、自分たちで解決させる「ヒント」をアドバイスする程度が丁度良いのかもしれません。
大人が一方的に白黒つけても、それは単なる「正論の押しつけ」で、根本の解決にはならず、問題をさらに大きくしてしまいます。
人間関係は「理屈」ではない部分が多々あり、正しいことを言っていれば解決する訳ではなく、正しい結果に導くプロセスが必要です。
そのプロセス(途中経過)とは、やはり、相手の立場に立ち、一度受け入れてみる事から始めるべきでしょう。
少し話は変わりますが、先日、我が家のテレビが突然壊れました。
買った当時(8年前)、20万位だったテレビが、今では6万前後、そして修理代は3万位。
修理か買い替えか、家族会議の結果、出した答えは、どちらでもなく「しばらくテレビが無い生活をしてみよう」でした。
最近は、見たい番組が無くてもテレビがついている事が多く、テレビ中心の生活でしたから。
家族会議で出した答えとはいえ、これは親が出した一方的な「押しつけ」で、子供達はやはり不服そうな顔をしていましたが、これに関しては「見ぬふり」です。
はじめは、なんとも寂しい感じで、いつもと同じ時間が長く感じましたが、そのうち、あれやこれやと家族の会話も弾み、普段会話が多い方だと思っていた我が家ですが、まだまだ話すことは沢山ありました。
その話の大半は、やはり「くだらない話」ですが、それ以外にも、昔のアルバムを引っ張り出して見たり、トランプをしたり、みんなで掃除したりと。
普段、子供達に頼み事をしても、いやそうな顔をするだけなのに、テレビがなくなると、嫌な手伝いがゲームのように、楽しくなるのは新発見でした。
便利で楽しいと思っている物が、意外と家族のコミュニケーションの妨げになっているかもしれないと思い、しばらくテレビを見ない、こんな生活を続けてみようと思っています。
あまりにも、コミュニケーションが取れすぎて、親父の背中を見るどころか、腹の中まで探られそうで、少し怖い気もしますが・・・。